尾崎 将司 |
日本ゴルフ協会(JGA)の設立決定後、「欧米のナショナル・オープンにならい、日本でも国家的権威の競技会を」という声をうけて、第1回の日本オープン が程ヶ谷カントリー倶楽部で開催されたのは1927(昭和2)年のこと。その大会で、並みいるプロたちを尻目に2位以下に10ストロークもの大差をつけて 優勝を飾ったのが、アメリカ帰りのアマチュア、赤星六郎だった。アマといっても、安田幸吉(関東のプロゴルファー第1号)、宮本留吉といったプロたちに レッスンをしたり、競技中にルールを教えたりしたというから、現在のプロとアマの力関係とはずいぶん違う。
だが、アマがこのタイトルを手にしたのはこの一度のみ。翌年に、赤星六郎の教えをうけた浅見緑蔵がプロとして初めて大会を制すと、その後は当代きっての名手たちがその名を優勝カップに刻むことになった。 |
史上最多の6度の優勝を果たした宮本留吉をはじめ、中村寅吉、小野光一、林由郎、戸田藤一郎、杉本英世などである。
なかでも、日本オープンの歴史を語る上で欠かすことができないのが“AON”の存在だろう。
初めてタイトルを手にするまでの道のりは三者三様だった。もっとも若くして制したのはジャンボ尾崎で、プロ5年目、27歳のときだった(ただし2度目の優 勝は14年後)。中嶋常幸は、賞金王を2度獲得し、円熟期を迎えていた30歳で初勝利。そして、3人のなかでいちばん苦労したのが青木功だ。83年、六甲 国際ゴルフ倶楽部で行なわれた48回大会で、プレーオフの末にテリー・ゲールを下して初優勝。それまで2位に入ること4回、16度目の出場でようやく手に したタイトルだった。
「たったひとつやり残した仕事がこの大会に勝つことだった。金で買えるものなら、いくら出してもいいと思ってきたものをやっと手に入れることができた」
優勝後の青木の言葉からは、ナショナル・オープンのもつ重みがひしひしと伝わってくる。
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中嶋 常幸 |
80年代から90年代初頭にかけての日本オープンを語ることは、AONの活躍を語るに等しく、毎年のように3人が優勝を争う姿が見られた。86年、1打差の2位に青木とジャンボを従え、中嶋が日本人として50年ぶりの連覇を達成。
翌年は、最終ホールで優勝を決めるパットを沈めた青木が、それまで見せたこともないような力強いガッツポーズをつくった。それは、2位に入った中嶋を意識 してのものだったように思えた。さらに翌年の53回大会。東京ゴルフ倶楽部の最終18番ホールのグリーン上で、ジャンボは決めれば優勝という1メートル足 らずのパーパットを2回仕切り直し、3回目でようやく沈めると、安堵の息をついた。このとき、1打差の2位に入ったのも青木と中嶋だった。 |